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「本当に、ずっと迷ってたんだな?」

オヤジさんの怒りを押し殺した声。

「ほんとだって。全然道がわかんなくてさ。泣きそうだったよ」

パジャマに着替えたシンヤは必死に言う。
もちろん演技だ。

「まあ…お前が方向感覚ないのは確かだが…」

これはオレも知ってること。
見掛けに似合わず方向音痴っぽい。

「なんで人に聞かなかったんだ?
 交番やコンビニもあるだろうに」

もっともな問いにシンヤは黙り込む。

「シンヤ?」

「だって…」

小さな声。

「親父やトッキーに心配かけたくなかったんだよ」

これも演技…いや演技だけじゃない。
本心も入ってる。
一人で過ごすことに慣れた子の、
周りに心配をかけまいとする、小さな意地。

「そうか…」

ふぅ、と溜め息をつくと、オヤジさんは軽く笑った。

「もう飯は食ったのか?」

いつも聞くように問い掛ける。

「あ、ああ。さっき」

台所には二人分の料理が残っている。

「トッキーも一緒に食べればよかったのに」

ネクタイを外しながらテーブルにつくと、
彼は大きく伸びをした。

「とにかく無事でよかった。っと、12時回ってんのか。シンヤ、もう早く寝ろ」

「ああ。おやすみ親父、トッキー」

「おやすみ」

シンヤは部屋を出ていった。

少し間を置き、オヤジさんはオレに問うた。

「本当に…あいつは何も被害に遭わなかったのか?」

何かあったことはわかっているのだ。
そして、彼が何かをしでかすはずがないとも知っている。

「未遂で逃げてきたそうです」

話すなと言われている。だからそれだけ答える。

「未遂ね…」

あらかた想像はついたらしい。
当の本人はどれだけ危険だったかわかっていないようだけど。

「…あれはもうガキじゃない気でいるが、だからこそ危なっかしい。
本当は一人にさせておくべきじゃないんだろうな」

いつになく自信なさげなオヤジさん。

「いえ、シンヤはしっかりしていますよ」

オレはなだめるように言葉をかける。
実際彼はしっかりしているのだ。
オレが来る前は家事全般をこなしていたし。

「まだしっかりしなくていい…」

聞こえないくらいの声のつぶやき。

「オヤジさん…」

なにを言ったらいいのか分からず、オレも黙り込む。

「まあ、そう考え込むな。たいしたことじゃない」

「はい…」

オヤジさんはそう言うが、どうしても…

「考え込むな。っつっただろ?
お前は考えすぎるとドツボなんだ。
だからもうやめ。忘れろ」

誰かに言われたようなフレーズと共に、テーブルにタンと両手をつくと、
いつの間にか食べ終わっていた皿を重ね始める。

「なあ、トッキー。
物事ってのはたいてい、ほっとけば収まるとこに収まるんだ。
いくら考えてもどうにもならないことでも、時間が解決する。
お前が気にしてるあいつの傷も」

「……!」

気にしていないフリ、何でもないフリも、
このひとには子どもの演技に見えていたのか。
そもそも年季が違う。

「今はどうしても気にしてしまっても、
 お前にあいつと近付きたいって気持ちがあるんなら…
 いつの間にか小さな垣根になってるさ。
 これっくらいのな」

オヤジさんの言葉に手元を見ると、空になった卵のパックがあった。

「つぶしてみろ」

そっと手を置き、上から押さえる。
パックはバリバリと大きな音を出す。

「ほら一気に」

手のひらをテーブルに押しつけた。
パックはバリバリ鳴り、ぺちゃんこになった。
ぺちゃんこのまま戻らない。

「そんなもんだ」

またいつの間にかビールを手にしていたオヤジさんは、プシッと缶を開ける。

「何でもなくなってしまえば、なんでこんな低い壁でって思うんだ。
そんな経験ないか?」

「オレは…」

言われてみれば、あるような気もする。
修行中にぶつかった壁。
遊撃隊での呼吸の間合い。
それから…
平和な世界になじむこと…

「わかるような気がします」

時間が解決する…。
時間というものは自分には、信用ならぬものだったけど。

「もうわかってるさ。お前は賢いから。
 さあ早く食って寝ろ。
 明日は早いぞ]

「はい」

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